2018年12月16日日曜日

あの人の言の葉 浅野寛

 陸軍主計中尉 浅野寛

 昭和19年12月15日
 ビアク島モクメルにて戦死
 三重県いなべ市員弁町出身 31歳


 五月三十日 日暮れ

 命令
 「支隊は 全力を以て 本夜夜襲を為す」

 雨は褌まで濡れ、靴の中に足を浮す
 燃料は無し
 採暖する何物もなし、夜襲を前にして、一杯の温湯を欲す。
 語る友を求む。

 幡軍医大尉と静かに語る。
 静かなり、静かなり。
 何物も不用なり

 残るは日誌と淑子に宛てたる葉書のみ
 水筒の水を日誌を焚きてわかす
 一葉毎に目を通し、過去を振り返り、思いも新たに、然して直ちに煙にする。
 僅かに温まりし水にて唯一つのミルクを味わう。

 葉書焼かんとす、幡大尉制して曰く
 「必ず出す時あらん 残すべし」と

 幡大尉と語る
 「過去において何が一番楽しかりしや」と問う
 「妻と共に在りし日なり」と
 我も同意同感なり。

2018年12月8日土曜日

あの人の言の葉 長井泉

 海軍飛行兵曹長 長井泉

 昭和16年12月8日
 真珠湾にて戦死
 熊本県下益城郡美里町出身 20歳

 
 ハワイ作戦の首途に当たり、一筆書き遺します。
 われ国家の為に死す。
 男子と生まれ、皇国に生を受け、しかも軍人として屍を戦場に晒すことは軍人の本望である。
 願わくば、われなき後は弟、洋を以て立派なる帝国軍人となし、国家の守りに立たせ給わんことを。


 この度の戦、一挙にして終わるべきにあらずして、東洋平和確立までには、幾星霜かかるやも計り知れず、この覚悟決してお忘れあるまじく、この世に生を受けてから二十年余り、慈愛の胸に抱かれ、何一つとして不自由な思いをしたこととてない我が侭ばかりを申して今日まで心配をかけてまいり、一度の親孝行のまねごとさえ出来ず、老後の面倒さえも見ることも能わずして、先立つことは何よりも心残りに存じています。

 然れども国家存亡の秋にあたり、私情を云々すること能わず、皇国君恩の万一に報ぜん時、かねて父上よりの教訓、国家の為に死することこそ最大の親孝行なりということを銘記し、必ずやこれという勲功は立てずとも、決して他人に遅れはとらぬよう最後の御奉公を致す覚悟です。


 されば何卒先立つ罪はお許し下されたく、御両親におかれても、既に私亡き時の覚悟は充分あられることとは信じて居りますけれど決してお嘆きあるまじく、もし報入りなば、先ず倅よくやったと、お褒め下されたく、特に母上には身体も病弱故、お嘆きの余り寿命を縮められるような事があればなお一層のこと、我重ねて親不孝ともなります。

 身はたとへ 太平洋に 水漬くとも 留め置かまし 大和魂

 今更に 驚くべきも あらぬなり かねて待ちこし この度の旅

2018年12月5日水曜日

あの人の言の葉 松村雪子

 陸軍軍属 松村雪子

 第百四師団司令部副官部所属
 昭和19年1月23日
 中国広東省番禺県秀木橋にて戦死
 愛知県名古屋市中区新栄出身 23歳


 昭和十九年の決戦態勢に入りまして、こちらも何だかきびしい空気がただよっています。
 国民がいよいよ一丸となる秋が参りましたね。

 先日の臨休の時、野戦病院と陸軍病院を慰問しました。
 内地とちがって野戦病院は看護婦さんも無く、殺風景な男の人ばかりの灰色の感じが致します。

 私達の差し上げるお花をとても嬉しそうに動けない身体を無理にずらせて瞳の中に嬉しさを一杯あらわしていらっしゃる姿には、涙がこぼれます。
 

 戦地といっても広東は平和そのもので内地より物資も豊富ですので私達も南支へ来てもさほど胸をつくものがありませんが、こうして病院へ行ったりしますと前線の匂いが多分にみなぎっています。

 私達もその内に前線へ慰問に参る予定ですが何れも芸無し猿ですから困って居りましたら、兵隊さんは顔を見るだけで満足だと伺います。

2018年11月29日木曜日

あの人の言の葉 福田誠一

 陸軍歩兵伍長 福田誠一

 昭和14年3月10日
 支那江蘇省山後村付近にて戦死
 広島県呉市倉橋町出身 25歳


 弟 進へ

 進よ、兄は戦争に行く二度と会う事は出来ぬ、進よ、兄が戦死と聞いたなら内の責任は君の双肩にあり。
 父母によく仕え立派な人間になって呉れ。
 兄の墓を建てて呉れ、兄の最後の願いだ。
 君は生活に苦しむと言う事は無いと思うが立派に暮らして呉れ。
 何事も打ち勝つと言う事だ。
 父母を頼む。
 これから社会へ立つのだ。
 一歩一歩進み行けよ。

 妹 富美子へ

 富美子よ、君は勝気なるが故に兄は心配をする、女の道は只実直に進むのだ。
 君の今の病気に負けてはならぬ、恋愛に落ちるので無い、今君の責任は大である。
 君故にお父さんは心痛して居る、何事も父に打ち明けて相談せよ。
 わからぬ父では無い。
 早く病気を治して良い家に嫁いで呉れ。
 君の顔を一目見たいが会わずに兄は征く、君の花嫁姿は何処かの地下で手を叩いて嬉んで見て居る。

2018年11月22日木曜日

あの人の言の葉 高須孝四郎

 海軍少尉 高須孝四郎

 神風特別攻撃隊 第七御楯隊
 昭和20年8月9日
 本邦東南方洋上にて戦死
 愛知県西尾市一色町出身 23歳


 攻撃直前記す

 御姉上様。合掌。最後に当たり何も言うことはありません。
 僕が常夏の国南米ブラジルより日本に帰って、何も知らない僕を、良く教え導いて下さった事は、心から感謝して居ります。

 身を海軍に投じて以来の未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。
 海軍に入営してより、日夜の訓練によって身心共に磨き清めて来ました。
 今君国の為に散って行く私です。

 日本に帰る時に母様より呉々も言われた事、頼まれた事を果たさずに散って行くのは心が残ります。

 最後に年老いたる両親に迷惑をかけた事を深く悔やんでおります。
 今私は澄んだ気持ちです。
 白紙の心持ちです。

 御両親、肉親の写真を胸に抱いて…… 皆々様もお元気に。

 では、私は只今より攻撃に行きます。

2018年11月18日日曜日

あの人の言の葉 岸文一

 海軍中尉 岸文一

 昭和19年10月24日
 フィリピンにて戦死
 新潟県柏崎市出身 22歳


 秋も深くなり裏庭で鳴く虫の音は今年も変わらぬことと思います。
 皆さんと一緒に物語った夜の数々の追憶で胸一杯になる事があります。
 きっとご両親様初め弟妹もさぞかし私のことを片時もお忘れなく御心配下さることと推察いたします。

 五月帰省の折、妹から次の話をきかされました。
 「お母さんはお兄さんの入隊以来、毎日写真の前に陰膳を供え、自分ではお茶を断ち、毎晩鎮守様へ武運長久のお祈りに参拝していらっしゃる」と、私は有り難くて返事が出来ませんでした。
 殊に入隊出発の前夜は歓送の宴で非常にお母さんには疲労なされて居られたのに、翌日の準備で一睡もとられず、私の打ち振る国旗のサインに「帰子待喜」と署名下された。
 尊いこの四字は暇さえあれば拝見して心の糧とし教訓として居ります。

 戦は益々苛烈になりました。
 到底生還は望めません。
 私も多数の方々や可憐な学童の喉をつり上げて軍歌を歌いながら国旗の波で元気一杯送って下されたあの姿が、今もなお脳裏に深く染み込んでいます。
 この世に天恩と父母の恩が最なるものと信じています。
 お母さんは日頃病弱でいらっしゃいます。
 妹や弟はどうぞ私の分をも孝行して下さい。

 ご両親様弟妹の健康を神掛けてお祈りし、不孝な私をお許し下さい。
 先般お送りしたアルバム三冊は弟妹への記念です。
 どうぞ私の事は御心配なく、戦死とお聞きの時は私の本望とお喜び下さい。
 さようなら。

 昭和十九年十月十四日 夜

2018年11月12日月曜日

あの人の言の葉 藤井冨一

 陸軍中尉 藤井冨一

 昭和20年8月6日
 沖縄方面にて戦死
 奈良県生駒郡安堵町出身 25歳


 永い永い二十五年間心配ばかりをおかけして、一時として安心させる様なことの出来なかったことが何よりも心残りであります。
 せめて一時でも安心させたかった。
 しかし、冨一も一人前の男になりました。
 今こそ最後の御安心をさせる秋が寸前に迫り、喜び勇み居ります。

 今更、何も思ひ残す事はありません。
 ただ感謝、喜び勇んで敵撃滅の決戦の空に、真一文字に征きます。
 お母さん、祝って下さい。

 お母さん、たとへ私の身体が帰って来なくても、心は必ずお母様の膝下に帰ってゆきます。
 あのうるはしい山に包まれた故郷の空へ帰ってゆきます。
 そして、皆様と一緒に日本を守りませう。

2018年11月5日月曜日

あの人の言の葉 笠間高雄

 陸軍憲兵曹長 笠間高雄

 昭和24年3月1日
 ティモール島クパンにて法務死
 千葉県出身 32歳


 拝啓

 いよいよ永別の秋が参りました。
 私は明三月一日の朝六時頃、南の果て「チモール島」「クーパン」郊外の刑場に於いて十名の射手により銃殺され、短い一生を終わります。

 戦争間、自己に与えられた任務遂行上やった事ですし、帝国の軍人として、又、日本人として私は少しも恥じる点はありません。

 日本人らしい態度で笑われぬ様、死んでゆく覚悟です。

 母上並びお前に対しても苦労のみさせ、何等報いることなく先立つ私を何卒許してくれ。

 誰も恨むこともない。
 敗戦と言う国家の重大事に際しての礎石なのだ。

 決して悲しまず、強く生き、母上に孝養し、洋子を立派に育てて欲しい。

 お母さん、静子、洋子、永久にさようなら。

 南の果てチモール島に於いて永遠に幸福を祈りつづけます。

 昭和二十四年二月二十八日  笠間 高雄

 笠間 静子殿 

2018年11月1日木曜日

あの人の言の葉 都所静世

 海軍少佐 都所静世

 回天特別攻撃隊
 昭和20年1月12日
 ウルシー海域にて戦死
 群馬県吾妻郡東吾妻町原町出身 21歳


 蒸し風呂の中に居るようで、何をやるのも億劫なのですけれど、優しい姉上様のお姿を偲びつつ最後にもう一度筆を執ります。

 三十日の一七〇〇、豊後水道通過、迫り来る暮色に消え行く故国の山々へ最後の決別をした時、真に感慨無量でした。
 日本の国というものが、これほど神々しく見えたことはありませんでした。
 神州断じて護らざるべからずの感を一入深くしました。

 姉上様の面影がちらっと脳裏をかすめ、もう一度お会いしたかったと心のどこかで思いましたが、いやこれも私心、大義の前の小さな私事、必ず思うまいと決心しました。

 艦内で作戦電報を読むにつけても、この戦はまだまだ容易なことではないように思われます。
 若い者がまだどしどし死ななければ完遂は遠いことでしょう。

 生意気のようですが、無に近い境地です。
 攻撃決行の日は日一日と迫って参りますが別に急ぐでもなく平常です。
 太陽に当たらないのでだんだん食欲も無く、肌が白くなってきました。

 今、六日の〇二四五分なのですが、一体午前の二時四十五分やら、午後の二時四十五分やらとにかく時の観念はなくなります。

 姉上様、もうお休みのことでしょうね、今総員配置につけがありました。
 ではさようならします。
 姉上様の末永く御幸福であります様、南海の中よりお祈り申し上げます。

 一月六日  静世

2018年10月27日土曜日

あの人の言の葉 角光男

 陸軍兵長 角光男

 昭和20年3月17日
 硫黄島にて戦死
 熊本県宇土市石小路出身 33歳

 戦地から愛児への手紙


 はいけい、あけみ、けいこさん、おしょうがつはすぐですね。
 おてがみたしかにうけとりました。

 そのご、みんなおげんきでなによりとよろこんでおります。
 おとうさんも、まいにちげんきで、みくにのためにはたらいております。

 かきもたくさんなったようですね。
 そしてあかくうれたかきをおとうさんにそなえたそうですね。
 ひじょうにおいしかったですよ。

 けいこさん、けいこさんもことしは、ようちえんで、らいねんの四月はこくみんがっこうの一年生ですね。
 うれしいでしょう。

 あけみ、けいこさん!
 おじいさん、おばあさん、おかあちゃんによろしく。

 またおたよりまっております。
 さようなら

 昭和十九年十二月十七日  角 光男

2018年10月22日月曜日

あの人の言の葉 町田道教

 海軍大尉 町田道教

 神風特別攻撃隊 第五筑波隊
 昭和20年5月11日
 沖縄沖にて戦死
 長崎県平戸市生月町出身 25歳


 雨戸がしめられて明り取りに一枚あけられ、その近くで母上は良く縫物をしておられた。
 俺達は所在なさに何か食物をねだっていたものだ。
 そのうちきっと母上は何かこさえて下さったものだ。
 ああ幼き頃の思い出は実に遠いものになってしまっている。

 我等の為に苦労して来られた母上にその報いもせず、老後の楽しみも見せず、散りゆくのは残念である。
 俺と泰教の望みを達成してくれるのは弟正教である。
 素直に元気で大きくなってくれることをひたすら望む。

 それから若い盛りの綾子にも大分苦労をかけました。
 化粧もせず、着物をきず、ただ家の為に働いてくれるのを思うと全く頭が下がります。
 よい婿さんを見つけてやって下さい。
 サエ子ちゃんも素直によい子になる様お願い致します。

 私も靖国神社からそれを祈って居ります。

2018年10月17日水曜日

あの人の言の葉 塚本太郎

 海軍大尉 塚本太郎

 昭和20年1月21日
 中部太平洋方面にて戦死
 茨城県龍ケ崎市出身 22歳


 父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。
 本当にありがとう。
 こんな我がまま者を、よくもまあ本当にありがとう。

 僕はもっと、もっと、いつまでも皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。
 愉快に勉強し皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。

 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ、夏は氏神様のお祭りだ。
 神楽ばやしがあふれている。
 昔はなつかしいよ。
 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。
 あそこで、転んだのはだれだったかしら。
 雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。
 昔はなつかしいよなあ。
 こうやって皆と愉快にいつまでも暮らしたい。
 喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握り合って……

 然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。
 日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間、受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。

 至尊の御命令である日本人の血が湧く。
 永遠に栄えあれ祖国日本。
 みなさんさようなら…… 元気で征きます。

 昭和十八年十二月十日

2018年10月10日水曜日

あの人の言の葉 安部勝雄

 陸軍歩兵曹長 安部勝雄

 歩兵第52連隊
 昭和14年4月19日
 山西省朱家垣付近にて戦死
 岩手県奥州市江刺岩谷堂出身 35歳

 
 拝啓
 子供等には変わりありませんか。
 日増しに寒さも加わりますので一人で子供等の厄介をされて居りますと、何に彼につけ手落ちがちになり、風邪を引かす様になりましょうが、お気を付けて丈夫にする様になさい。

 一月十七日には此処にも雪が降りました。
 寒さは依然として同じ位です。
 私の事は少しも心配することはありません。

 今も敵の銃声をききつつ警戒の任にあたり寝もやらず守る兵士達、実によく毎夜この様に身体が続くものだと自分ながら驚くほど元気です。

 この手紙が届く頃にはお正月でしょう。
 岩谷堂町内の出征者の内にも満足なお正月の出来ない家もあることでしょう。
 その様な人達の為には幾らでもよろしいから餅を差し上げて御慰問致しなさい。
 苦しい時は皆同じことなんだから。
 私は今後幾度の戦闘があっても元気で皆様に会うことが出来ると信じて居ります。

 皆丈夫でお暮らし下さい。
 火は充分の上にも注意する様にね。

 さようなら

2018年10月6日土曜日

あの人の言の葉 渡辺研一

 陸軍中尉 渡辺研一

 昭和20年5月27日
 沖縄県糸満市喜屋武にて戦死
 栃木県出身 29歳


 まだお便りする機会は何度かありましょう。
 しかし時機はいよいよ迫りつつあります。
 それが何時であるかはもとより予測することは出来ませんが、恐らくは、あなた達の予想外の速さでやって参りましょう。
 その時の来ない中に、言うべき事は言っておきたいと思います。
 しかし、いざペンをとってみると今更ながら申すことがないのに気がつきます。

 今の私は強くあらねばなりません。
 寂しい、悲しいというような感情を振り捨てて、与えられた使命に進まなければならぬ立場にあるのです。
 ただ一切を忘れて戦って戦って戦い抜きたいと思います。
 不惜身命 生きることは勿論、死ぬことすらも忘れて戦いたいと念じて居ります。
 南海の一孤島に朽ち果てる身とは考えずに、祖国の周囲に屍の砦を築くつもりで居ります。

 何時かはあなた達の上に光栄の平和の日が訪れて来ることと思います。
 その日になって私の身を以て尽くしたいささかの苦労を思いやって下されば私達は、それで本望です。

 愛する日本、その国に住む愛する人々、その為に我等は死んで行くのだと考えることは実に愉しいものです。
 運命があなたにとっての良き夫たることを許さなかった私としては、そう考えることによって、あなたへの幾分の義務を果たし得たような安らかささえ覚えます。

 一度戦端が開かれれば、一切の手段を尽くし最善の道を歩むつもりです。
 万一の事があった際、例え一切の状況が不明でもあなたの夫はこのような気持ちで死んで行った事だけは、そうして最後まで、あなたの幸福を祈って居た事だけは、終生、覚えていただきたいと思います。

 その後体の調子は相変わらず、すこぶる好調です。
 いつもながら御自愛を祈ります。

 御機嫌よう。

 昭和二十年二月十日

2018年10月3日水曜日

あの人の言の葉 菅谷寛一

 海軍軍属 菅谷寛一

 昭和19年9月24日
 マーシャル諸島マロエラップ島にて戦死
 東京都港区麻布台出身 45歳


 暫く御無沙汰して居るが、皆変わった事もなく達者で居られるが、今後とも丈夫で居てくれる様祈る。
 御身一人で大変であるが多嬉子の一身上は何から何まで一切取きってやってくれる様頼む。
 多忙の為どちらへも御無沙汰して居るが田舎の兄の方へも宜しく伝言してくれる様に、何程の事もなかろうが兄と相談の上何事もやれ。

 多嬉子、御前様も体を丈夫にする様心がけ、何時も明朗に、母上に従い孝養してくれ。
 母は絶対の物と知れ。
 少し不満がましき行いすべからず。
 堅く禁ず。女らしくあれ。

 次に貯金通帳の番号を知らせる。
 軍事郵便貯金通帳艦いか二五一二八号で六百三十五円ある。

 中野区鷺宮一丁目四十四番地早野幽香子様より慰問袋を頂いた。
 礼状は出してあるが、届かないだろうと思う。
 その時の人形は何時も胸に付けて居る。
 私は非常に嬉しかった。
 その事を御身から御礼の手紙を差し上げてくれ。

 この際何事も書きたいと思うが、何も書けない。
 長い間有難う、これで御免。
 さようなら、さようなら

2018年9月26日水曜日

あの人の言の葉 吹野匡

 海軍少佐 吹野匡

 神風特別攻撃隊 旭日隊

 昭和20年1月6日
 フィリピン沖にて戦死
 鳥取県米子市淀江町出身 26歳


 母上様
 十九年十二月二十一日 匡

 私は長い間本当にご厄介ばかりおかけして参りました。
 色々の不孝の上に今また母上様の面倒を見る事もなしに先立つ不孝をお許し下さい。

 昨秋、私が海軍航空の道を選んだ事は、確かに母上様の胸を痛めた事と思います。
 常識的に考えて、危険性の少ない道は他に幾らもありました。
 国への御奉公の道においては、それでも充分果たされたかも知れません。
 しかし、この日本の国は、数多くの私たちの尽きざる悲しみと嘆きを積み重ねてこそ立派に輝かしい栄えを得て来たし、また今後もこれあればこそ栄えて行く国なのです。
 私の母上はこの悲しみに立派に堪えて、日本の国を立派に栄えさせて行く強い母の一人である事を信じたればこそ、私は何の憂いもなしにこの光栄ある道を進み取ることが出来ました。
 私が、いささかなりとも国に報いる所のある益荒男の道を進み得たのも、一に母上の御蔭であると思います。

 母上が、私をしてこの光栄ある海軍航空の道において、輝かしい死を、そして、いささかの御奉公を尽くさせて下さったのだと誇りをもって言うことが出来ます。

 美しい大空の白雲を墓標として、私は満足して、今、大君と愛する日本の山河とのために死んで行きます。

2018年9月20日木曜日

あの人の言の葉 大嶺美枝

 白梅部隊員 大嶺美枝

 沖縄県立第2高等女学校4年
 昭和20年6月9日
 沖縄高嶺村にて戦死
 沖縄県那覇市小禄出身 17歳


 お母様!
 いよいよ私たち女性も、学徒看護隊として出動出来ますことを、心から喜んで居ります。
 お母様も喜んで下さい。
 お母様は女の子を手放して、御心配なさる事でございましょうけど、決して御心配はなさいますな。
 散る時には、立派な桜花となって散って行きます。
 その時は、家の子は、「偉かった」とほめて下さいね。

 お母様!
 空襲時はよく御用心下さいね。
 そして善ちゃんと弘ちゃんをよく守って下さいませ。
 決して私の御心配はなさいません様にして下さい。

 ネルはお母様のものか、善ちゃんのものを作って着せて下さい。
 波の上宮のお守りを入れて置きますから、善ちゃんの出動の際には、お母様の髪の毛と共に、弘ちゃんにお守り袋を作って貰って、善ちゃんにやって下さい。

 なるべく自分でやる心算でしたけど、到底忙しくて出来ませんから、弘ちゃんに作って貰います。

 お母様!
 今まで口答えばかりして来てすみませんでした。
 これからは、きっと立派な一人前の看護婦になって、お国の為に働きます。

 お母様!
 御身体を無理なさらぬ様に、また善ちゃん弘ちゃんを怒らずに、朗らかに暮らして下さい。

 大島兵曹、信一兄さんによろしくおっしゃって下さいませ。  かしこ

 最後に一家の御健康をお祈りいたします。

2018年9月15日土曜日

あの人の言の葉 池亀重作

 陸軍少佐 池亀重作

 昭和17年11月23日
 ソロモン群島 ガダルカナル島
 九〇三高地付近にて戦死
 新潟県糸魚川市筒石出身 40歳


 父より

 恵子よ、可愛い恵子よ。
 父は恵子が早く大きくなり、立派な人になり、御国のために働くことを祈ります。
 母の教へをより守り、誰にも負けぬ様に、お勉強しなさい。
 「努力は天才に優る」と言う事を念に収め、偉い人になって母に孝行をしなくてはなりません。
 父は東京の靖国神社でそればかり祈って居ます。

2018年9月11日火曜日

あの人の言の葉 山崎保代

 陸軍中将 山崎保代

 北海守備第二地区隊
 昭和18年5月29日
 アリューシャン列島 アッツ島にて戦死
 山梨県出身


 玉手箱帰る時まで保管されたし

 栄子へ遺す言葉

 一、部隊の長として遠く不毛に入り、骨を北海の戦野に埋め米英撃滅の礎石となる。
   真に本懐なり、況や、護国の神霊として悠久の大義に生く、快なる哉。

 一、思い遺すこと更になし、結婚以来ここに三十年良く孝貞の道を尽くし内助の功深く感謝す。
   子等には賢母、私には良妻、そして終始変わらざる愛人なりき。
   衷心より満足す。

 一、健康に留意し老後を養い、子供達は勿論、孫共の世話までせられたし。
                                
 保之 保久 和子 正子へ遺す言葉

 一、行く道は何にても宜し、立派な人になって下さい。

 一、兄弟姉妹互いに協力し、元気に愉快に活動しなさい。

 一、母に孝養を尽くすことが、父の霊に対する何よりの供養と存ぜられたし。                          

2018年9月7日金曜日

あの人の言の葉 中嶋正敏

 陸軍伍長 中嶋正敏

 昭和13年8月12日
 江西省東林街野戦病院にて戦病死
 熊本県菊池市七城町出身 30歳

 戦地から愛児への手紙


 敏彦さん、おてがみ有難う。
 父さんはほんとうにうれしくて、何回もくりかえし、くりかえし読みました。
 このたび級長になったそうですね。
 ほんとうにお目出度う。

 あなたが学校からよろこびいさんで家に帰り、級長になったことを、母さんに話した姿を戦地からそうぞうしました。
 ほめてあげます。

 父さんはほんとうにうれしくて、なみだがにじみました。
 また、読み方の百点もほめてあげます。
 字もじょうずになりましたね、そのごほうびに母さんからはんごうべんとうを買っていただきなさい。

 これからも、ますますしっかり勉強して二人の弟と仲よく暮らしなさい。
 母さんのいうことをよくきいて、公ちゃんも祐ちゃんもかわいがって下さい。

 敏彦さん、あなたは軍人の子供です。
 学校でも家でもたとえ悲しい事があっても、めそめそしてはいけません。
 男の子はどんなときでも強くなくてはなりません。
 父さんのいうことがわかりますか。
 父さんはお国のためにしっかりはたらいて居ますから、あなたもまけずに軍人の子供として強く成長してください。

 父さんは近いうちに○○の第一線に出動します。
 げんきで暮らしなさい。
 そして公彦や祐介も父さんのぶんまでかわいがって下さい。
 たのみますよ。
 敏彦よ、強く、たくましく成長あれ。 

2018年9月2日日曜日

あの人の言の葉 安達卓也

 海軍大尉 安達卓也

 神風特別攻撃隊 第一正気隊
 昭和20年4月28日
 沖縄沖にて戦死
 兵庫県豊岡市竹野町出身 23歳


 遙かな旅の疲れの見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つめた。
 私の為に苦労をかけた老いが、父母の顔にありありと額の皺にみられるような気がした。
 何も思う事が言えない。
 ただ表面をすべっているにすぎないような皮相的な言葉が二言、三言口を出ただけであり、剰え思う事とは全然反対の言葉すら口に出ようとした。
 ただ時間の歩みのみが気になり、見つめる事、眼で伝わり合う事、眼は口に出し得ない事を言ってくれた。

 母は私の手を取って、凍傷をさすって下さった。
 私は入団以来初めてこの世界に安らかに憩い、生まれたままの心になってそのあたたかさを懐かしんだ。
 私はこの美しい父母の心温い愛あるがゆえに君の為に殉ずることが出来る。
 死すともこの心の世界に眠ることが出来るからだ。
 僅かに口にした母の心づくしは、私の生涯で最高の美味だった。
 涙と共に飲み込んだ心のこもった寿司の一片は、母の愛を口移しに伝えてくれた。

 「母上、私の為に作って下さったこの愛の結晶をたとえ充分頂かなくても、それ以上の心の糧を得ることが出来ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしっかりと刻みつけられています。これで私は父母と共に戦うことが出来ます。死すとも心の安住の世界を持つことが出来ます」
 私は心からそう叫び続けた。

 戦の場、それはその美しい感情の試練の場だ。
 死はこの美しい愛の世界への復帰を意味するがゆえに私は死を恐れる必要はない。
 ただ義務の完遂へ邁進するのみだ。

 一六〇〇、面会時間は切れた。
 再び団門をくぐって出て行かれる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送った。

2018年8月28日火曜日

あの人の言の葉 須賀芳宗

 海軍大尉 須賀芳宗

 神風特別攻撃隊 第一正気隊
 昭和20年4月28日
 沖縄沖にて戦死
 東京都台東区出身 26歳


 昨日、今日と隊の桜も満開です。
 この桜ほど美しい桜を私は未だ見た事がありません。
 きっとこれも見る者の心のせいでしょう。

 皆さんの去った隊内にこの綺麗な桜に囲まれていささか感傷に溺れました。
 それは決して淋しい物悲しいホームシックではないことは断言できます。
 恵まれた両親にかこまれて温かい家庭に幸福に溢れて育った小生が学生時代から愛し続けて来た飛行機で勇躍征途にのぼる、実に恵まれた生涯であったと痛感したのです。
 豊かに真直ぐに育ったと云う事は今となって最大の強味です。
 実にその点両親に感謝しています。
 坊ちゃん育ちは弱味も多くありましょうが、根本に於いてどんな状態に置かれても必ず物を素直に受け入れて好意に解釈します。

 今、日本を守る最後の切り札として出陣するに当たって、日本人として御両親様の倅として誰よりも誇りと喜びとを以て出撃出来る事は私の最高の勝利であると微笑んでいます。

 桜が散ったら又お便りします。

2018年8月24日金曜日

あの人の言の葉 石田正夫

 海軍軍属 石田正夫

 昭和19年8月8日
 グアム島にて戦死
 兵庫県加東市吉井出身 37歳


 昨夜子供の夢を見ていた。
 父として匠に何をして来たか。
 このまま内地の土を踏まぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめて良いだろうか。
 愚かな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があったのだ。

 強く生きて欲しい。
 そして、私の正反対な性格の人間になってくれる様に切に祈る。 合掌

 三月○日
 内地の様子が知りたい。聞きたい。
 毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。
 自分たちは既に死を覚悟して来ている。
 万策尽きれば、潔く死のう。

 本月の○日頃が、また危険との事である。
 もし玉砕してその事によって祖国の人たちが少しでも生を楽しむことが出来れば、母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。
 

 遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
 懐かしい遠い母国の若き女たちよ、清く美しく健康であれ。

2018年8月19日日曜日

あの人の言の葉 棚橋順一

 陸軍大尉 棚橋順一

 昭和14年5月7日
 中国華中にて戦死
 東京都出身

 愛児に宛てた手紙


 今は昭和十二年十月十七日の午後六時半です。
 僕の乗っている運送船は東支那海を上海に向けて走っているところです。
 台風の余波で船が揺れて苦しいけれども今書いて置かないと明日は上陸準備で忙しいので揺れる机の上で書いています。

 十九日の朝、上海に上陸して、すぐに戦線に行くはずです。
 そこは生死の境であって、基の生長を見届けることが出来ないかも知れない。
 そこで大きくなったら、父は基に何を期待していたかを知って貰いたいと思うのです。

 基は将来自分の適した方面に進んでくれればよいのですが、決して力だけの人になってはいけません。
 力だけで人生を送るのは不幸の因、滅亡の元です。
 必ず徳というものを中心として進んで下さい。
 所謂偉い人にならなくてもよい。
 世の中には名も知れぬ人で徳の高い人があるものです。
 人生には荒波があって築いたものを次から次に崩して行く、ここに確信の道というものがなければやって行けない。

 大きくなったら宗教的方面の研究修業をするとよいと思う。
 その時必要なのはよい師匠である。
 よい指導者である。
 よい友である。
 私は世にも珍しい良師につくことが出来た。
 どうぞ基が大きくなったら、これを心懸けて下さい。

 それから僕のために総てを捧げてくれた基のお母さん、お親父さん、お祖母さんをどうか大切にして下さい。
 みんな苦労をした人々だ、僕に代わって大切にして下さい。
 基のことを会社の人々、塾の人々、中学時代の友人によく頼んで置いたから困ったときは相談に行くがよろしい。

 ではこれでやめます。
 さようなら。
 どうぞすくすくと丈夫に育って下さい。

 父より(基宛)

2018年8月14日火曜日

あの人の言の葉 齋藤幸雄

 海軍少尉 齋藤幸雄

 神風特別攻撃隊 第六神剣隊
 昭和20年5月11日
 沖縄沖で戦死
 宮城県出身 20歳


 何も思い残すことはありません。

 ただ、万歳あるのみです。

 お母さん、きっと桜咲く靖国神社に来て下さいね。

 いつまでも、元気でいて下さい。

2018年8月10日金曜日

あの人の言の葉 大田博英

 海軍大尉 大田博英

 神風特別攻撃隊 第一筑波隊
 昭和20年4月6日
 南西諸島沖にて戦死
 鳥取県東伯郡北栄町出身 23歳


 御父上様
 多年の深海重山の御恩に報うべき秋が参りました

 博英は今から征きます 倶に御喜び下さい
 此の期に及んで何も申し上げる事も有りません
 只 皇国永世の安泰を願うのみです
 必ずや期待に添います
 御祖母様にも宜敷く御伝え下さいませ

 もうすぐ春です 裏の山桜も咲きましょう
 菜種の田が眼に浮かびます
 小川の想い出 懐かしい想い出は尽きません

 敵は眼前に迫りました 最後の勝利を確信します
 来るべき大捷の日をまぶたに 笑って静かに去ります

 では お元気で

2018年8月7日火曜日

あの人の言の葉 柴田勝見

 陸軍兵長 柴田勝見

 昭和17年8月8日
 中国中部にて戦死
 東京都出身 31歳

 愛児への手紙


 えみこちゃん、まいにちげんきにがっこうへいっていますか、まだおべんとうはもっていきませんか、がっこうはとてもおもしろいでしょう。

 それからおうちではおかあさんのいうことをよくきいてしかられたりしないでしょうね。

 かつやのおもりもよくしますか、こんどおとうさんはとおい「しな」のおくにへきていますから、このまえのときのようにときとぎおうちにかえることはできませんから、よくおかあさんやおばあちゃんのいうことをきいておりこうにし、おうちでおてつだいをしてください。

 がっこうのおべんきょうも、よくするのですよ。

 おとうさんも、そのうちおみやげをもっておうちへかえりますからたのしみにまっていてください。

 じゃ、さようなら

2018年8月4日土曜日

あの人の言の葉 野沢吉一郎

 陸軍軍曹 野沢吉一郎

 昭和19年10月26日
 バシー海峡にて戦死
 新潟県新潟市南区白根出身 39歳


 長い間まことに御苦労であった。
 つらくばかりお前に当たってほんとうにすまなかったが、私は幸せであった。
 身体のやせる程苦労させたが、皆前世の約束であったとあきらめてくれ。
 先に行ってお前の席をとって待つ。
 子供の事をくれぐれもたのむ。
 又父母の事もくれぐれもたのむ。
 お前が無事に幸福な日を送る事を見守って居る。

 悲しむな。嘆くな。
 人の世は皆こんなものだ。
 子供の事くれぐれもたのむ。
 達者に居れよ。病気せぬ様にせいよ。
 苦しかったが又楽しかったな。
 過ぎた日の楽しかった事を思い起こして日を暮らせ。

 子供は一日毎に大きくなる。
 思い出したなら仏様にお参りをせい。
 私の身体は死んでも、魂は生きてお前のそばに居る。

 つましくして細々と生活を立て、子供の生長を楽しみに待てよ。

 さようなら。

2018年7月28日土曜日

あの人の言の葉 植村真久

 海軍大尉 植村真久

 神風特別攻撃隊 大和隊
 昭和19年10月26日
 フィリピン沖にて戦死
 東京都出身 25歳

 愛児に宛てた手紙


 素子、素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。
 私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。
 素子という名前は私がつけたのです。
 素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。

 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、幸せになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても決して悲しんではなりません。

 お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。
 そして心に深く念じれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
 父はお前が幸福ものと思います。
 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っている様な気がするとよくおっしゃっていた。
 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけて唯々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
 必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。
 父は常に素子の身辺を護って居ります。
 優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

 お前が大きくなって私の事を考え始めた時に、この便りを読んで貰いなさい。

 昭和十九年○月吉日

 植村素子へ
 追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
 だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。
 素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

2018年7月25日水曜日

あの人の言の葉 安原正文

 陸軍大尉 安原正文

 第8飛行師団 特別攻撃隊
 昭和20年3月29日
 沖縄奥武島付近の海面にて戦死
 高知県出身 25歳


 沢山貰った御手紙は、みなポケットに入れて持って行きます。
 御守袋(御人形の寝ている)も忘れずに連れて行きます。
 コリントももう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃんは、御星様の仲間に入って、千鶴ちゃんが、立派な人になるのを見守っています。
 泣いたりなどしないで、朗らかに笑って、兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。
 御父さんや御母さんの言い付けを守って、立派な人になって下さい。

 三月二十五日  さようなら   正文


 千鶴子ちゃんへ

 御人形よ
 風鈴よ
 鶴よ

 はるばる遠くの島まで来て呉れて、毎日みんなを慰めて呉れたね、ありがとう、御礼を言います。
 誰も居なくなったら花蓮港の御母さんの処へ帰って、何時迄も可愛がって貰いなさい。

 さようなら

2018年7月20日金曜日

あの人の言の葉 渋谷健一

 陸軍少佐 渋谷健一

 神風特別攻撃隊 振武隊隊長
 昭和20年6月21日
 沖縄沖にて戦死
 山形県酒田市片町出身 31歳


 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十歳に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。
 死せずとも戦に勝つ術あらんと考うるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総当たりを行い、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給う。
 真に国難と言うべきなり。
 父は死にても死するにあらず、悠久の大義に生きるなり。

 一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父もまた幼少にして父母を病に亡くしたれど決して明るさを失わずに成長したり。
 まして戦に出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。
 父恋しと思わば、空を見よ、大空の浮かぶ白雲に乗りて父は常に微笑んで迎う。

 二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和が訪れて万民泰平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。
 二人仲良く母と共に父の祖先を祀りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。
 父は飛行将校として栄えの任務を心から喜び、神明に真の春を招来する神風たらんとす。
 皇恩の有り難さを常に感謝し世は変わるとも忠孝の心は片時も忘るべからず。

 三、御身等の母はまことに良き母、父の在世中は飛行将校の妻は数多くあれども、母ほど日本婦人としての覚悟ある者少なし。
 父は常に感謝しありたり。
 戦時多忙の身にして真に母を幸福にあらしめる機会少なく、父の心残りの一つなり。
 御身等成長せし時には父の分まで母に孝養つくさるべし。
 

 この父の頼みなり現時敵機爆撃のため大都市等にて家は焼かれ、父母を失いし少年少女数限りなし。
 これを思えば父は心痛極まりなし。
 御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。

 書き置く事は多けれど、大きくなったる時に良く母に聞き母の苦労を知り決して我が侭せぬよう望む。

2018年7月17日火曜日

あの人の言の葉 白井定之

 海軍軍属 白井定之

 昭和19年2月6日
 マーシャル諸島クエゼリンにて戦死
 東京都大田区中央出身 35歳


 恒宏君、勝年君、元気ですか、楽しい夏休みが来ましたね。
 お休みだからって朝ねぼうしてはいけませんよ。
 朝は早く起きて夜は早くねましょうね。
 お父さんはとても元気で、朝は僕達がねているうちに起きて一生けんめいお仕事をしています。

 お母さんの言うことをきかなかったり、つやちゃんとけんかしたりしてはだめですよ。
 僕達の良いことも悪いこともみんなお母ちゃんから知れますよ。
 良くやっているとお父さんが帰るときにとても僕達がびっくりするおみやげをたくさんもって行きます。
 家が新しいのですからおへやなどよごさず自分の勉強室は二人で良くおそうじすることですよ。

 お母さんにお願いして下田のおじいさんの所へつれていってもらいなさい。
 そして海へ入って、まっくろになるのです。
 じょうぶになります。
 お父さんはまっくろです。
 だからとても元気です。
 じょうぶでなくては、大きくなってりっぱな兵隊さんになれませんよ。
 恒宏君はじき中学へ行くのですからよくその勉強をして今からよういしておくのですよ。

 戦争はこれからもっともっと長くつづきます。
 二人が大人になるまでつづきますよ。

 毎日あついからキャンデーや生水などはあまりのまないこと、夜はねびえをしないようにしなさい。
 では又このつぎに手紙を出します。
 僕達もてがみを下さい。
 まっています。


 さようなら

2018年7月13日金曜日

あの人の言の葉 有馬亮三郎

 陸軍薬剤中尉 有馬亮三郎

 昭和20年7月10日
 ミンダナオ島にて戦死
 長崎県長崎市高島町出身 38歳


 お父さんは只今、遠い暑いところで戦争しています。
 お母さんや順子に、通信してよいと許可が出た時は、嬉しくて四、五日寝れませんでした。

 ここは暑くて、何も無いところです。
 唯、椰子の木とおいしいバナナだけが生い茂る本渡町くらいの部落です。
 日本人は五、六人いました。
 

 島人は洋風化したおしゃれで、美しいが中々気の良くない連中で、兵隊さんも用心しています。
 みんな暑くて働かないから食物は肉も野菜も魚もありません。
 ですから、お父さんたちは今から野菜も作り、魚もとり、家も住みよく改良し、道路も作って準備するわけです。

 病気が多いけれどお父さんも気をつけて元気に奉公しますから、順子もお母さんの言う事をよく聞いて、親子仲良く健康に明るく生活して下さい。
 そうするとお父さんはどんな時でも元気が出ます。

 お父さんは戦地でも、毎朝毎晩お母さんや順子が元気で幸福な様にと神仏にお祈りしています。

 ここは慰安も、ラジオも無い淋しい所ですから、沢山お手紙を出してくれる様にみんなに伝えて下さい。

2018年7月11日水曜日

あの人の言の葉 加藤出雲

 陸軍中尉 加藤出雲

 昭和15年10月17日
 安徽省獅子嶺にて戦死
 京都府京都市伏見区新町出身 29歳

 
 一方は畑で他方は傾斜していて泥が深い。
 道は悪い。
 その畑を通っているのだが、きれいな花が一輪泥の上に美しい顔を見せていた。

 尖兵の将校がその花をよけて横の泥深い所を迂回して歩いていた。
 花の上を踏んで歩く方が泥も少なく近道でもあるのだが、花をふみくだくに忍びなかったのだ。

 次を歩いている男もそれにならって花をよけて通った。
 次々に兵隊はわざわざ泥の道を遠回りして歩いた。
 部隊が通り過ぎた後にはきれいな花が泥の上に浮かんでほのぼのとした美しさを見せていた。
 そんな時にさえも、たった一輪の花もふまずに通って行った兵隊の心情が嬉しいのだ。

2018年7月7日土曜日

あの人の言の葉 多田美好

 海軍二等機関兵曹 多田美好

 昭和21年6月28日
 シンガポール・チャンギーにて法務死
 岐阜県出身 33歳


 母上

 長い間色々御厄介になりました。
 此の度の件、お国の為に一生懸命働いたのですが、敗戦と云う大変動で戦犯人として刑を受ける事になりました。
 然しお母さんの教えを守り、家の名を辱める事は決して致しませんでした事を嬉しく思って居ります。

 大らかな気持ちで喜んで国難に殉じて参ります。
 唯、生前何等の御孝養を尽くすことなく、そればかり心残りです。

 どうかお母さん、何時までもお元気で幸福にお過ごし下さいます様お祈りして居ります。

 判決のあります前夜、お母さんにおぶって頂いて川を渡った夢を見ました。
 私は随分仕合せでした。
 何もかも唯なつかしく、凡て夢の様です。

 親思う 心にまさる 親心 今日のおとづれ 如何にきくらん

 お母さん、私は死んでは居りません。
 何時も何時もお傍に居ります。

2018年7月4日水曜日

あの人の言の葉 古市敏雄

 海軍大尉 古市敏雄

 宇佐海軍航空隊
 昭和20年4月6日
 南西諸島沖にて戦死
 香川県高松市出身 23歳


 昭和十九年六月二十五日

 当直室から突然電話がかかって来ました。
 母が来ているとのことでした。
 午後上陸が許されるとすぐ倶楽部に急ぎました。
 が途次、母が路傍で待っていてくれました。
 以心伝心と言いましょうか。
 それともそれとなく感じたのかも知れません。
 軍人になっても、母が恋しいのであります。
 学生時代はそうでもなかったのですが、海軍に入って、特に予備学生になってから痛切に感じます。
 意志が弱いからでしょうか。
 また人の子としての情なのでありましょうか。

 倶楽部に落ち着いて、母と四方山話をしました。
 でも話をするというより、ただ元気な姿を見ていただければ、それで満足なのであります。
 話ぐらいならば、手紙でも用が足せますものね。
 自分には母がある。
 有り難いことだと思いました。
 遠路はるばる逢いに来てくれる母が……。

2018年7月1日日曜日

あの人の言の葉 茂木三郎

 海軍少尉 茂木三郎

 神風特別攻撃隊 第五神剣隊
 昭和20年5月4日
 沖縄沖で戦死
 予科練乙飛第十八期生
 福島県出身 19歳


 僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。

 お母さん、良く顔を見せて下さい。

 しかし、僕は何も「カタミ」を残したくないんです。

 十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

 お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

 それが僕の別れのあいさつです。